お釈迦様の逸話から死についてお話しになったとされるものです。(2017年12月テレフォン法話)

 先月に引き続きお釈迦様の逸話についてお話しいたしますが、今月は釈迦が死について自らお話しになったとされるものです。
最初は釈迦がお亡くなりになられた時のことです。釈迦は35歳で悟りを開かれ80歳で亡くなるまでインド各地を巡り、教えを説いて回られました。
最後に教えを説いたのはインド北部のハーバーのマンゴー園の持主チュンダの家でした。ところが出された豚肉料理ともキノコ料理ともいわれる食事をし、その後旅を続けクシナガラまできたところ、激しい下痢と腹痛に襲われ動けなくなってしまいました。
今でいうノロウイルスのようなものと想像されます。   
 釈迦はお伴をしていた弟子の阿難さんに北枕で床を取らせ、間もなく死を迎えることを告げました。驚いて泣きじやくる阿難さんに釈迦はおっしゃいました。
「泣かなくてもよい、いつも言っているようにこの世の全てのものは絶えず変化していくのであり、同じ姿であり続けることはできない。命ある限り一生懸命努力するように」と諭され息を引き取られました。このお話から釈迦は人の死は宇宙の自然の営みにすぎない、それより生きている間に自分の目的に向かって努力し続けることが大切と教えられたと思われます。
 次のお話は、釈迦がサンガという大勢のお弟子さんたちと修行をされている道場のようなところでのことで、お弟子さんの一人が釈迦の所ヘやってきて、「教えていただきたい、私は死んだらどうなるのでしようか、そのことを考えると怖くてたまりません」と尋ねました。
すると釈迦は一言「無記」と答え後は何もおっしゃいませんでした。以後そのお弟子さんは同じ質問を二度としなかったそうです。
 この死んだらどうなるかとの問いへの返事の無記ですが、無はない、記は書くということですので書くことはない、つまり言うことはないということかと思います。
釈迦は常日頃「過去を振り返ってはいけない、過ぎたことは元には戻らないのだから。先のことを心配してはいけない、先のことは考えてもわからないのだから、過去や先のことを考えるのは全て無駄である。それより今どう生きるか、なにをなすべきかを考えよ」と諭しておられました。
このことから自らの死後どうなるかといった、考えてもわからないことを考えるのは無駄だからやめなさいという意味で、無託と答えられたのかと想像します。
 釈迦は、この世は苦しみの世界であるとして、中でも生まれてくること、老いること、病気になること、死ぬことを生老病死の四苦といって最も大きな苦しみととらえ、厳しい修業によって全ての苦しみを無くすことができたと言われました。そしてこの苦しみを無くす教えを説いて長い旅をされたのです。
 私は、この4つの苦しみの中で自らの死が明確なものになった苦しみに勝るものはないと考えます。こうやってお話している間にもあと何カ月といった命の期限を切られ、もだえ苦しんでいる人たちがなんと多いことか。その人たちの苦しみを少しでも減らすことができるのは、釈迦の教えの中にこそヒントがあると確信しています。死の苦しみを無くす、誰もが分かる釈迦の教えをひたすら求めて、精進することを心に誓っています。


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