今月は、「キリスト教の愛と仏教の慈悲」について考えます。
先月NHKのEテレで新約聖書の福音書について、よくテレビでキリスト教の解説をされている批評家の方と、男女のコメンテーターによる対談の番組がありました。タイトルに4回・最終回となっていて、今回はイエスの最後の場面から復活するまでが取り上げられました。批評家の方が、この福音書にはイエスの教えの見知らぬ人であろうと手を差し伸べる、人としてあるべき姿が書かれている。イエスは弱い人たちに自ら出向いて寄り添っていたと述べ、イエスの言葉「隣人をあなた自身のように愛せよ」を紹介しました。
この汝の隣人を愛せよのイエスの言葉こそ、キリスト教が愛の宗教といわれる由縁かと思います。批評家の方が人であれば全て隣人たりえると言っていますので、イエスの言葉は「全ての人をあなた自身のように愛せよ」となります。
福音書は、最後の晩餐の場面でイエスはユダがイエスを裏切ること、残りの11人の使徒全員がイエスを見捨てるであろうと予言します。数日後イエスを捕らえに来た邏卒の先頭にユダがいて、11人の使徒は知らないふりをします。イエスはユダに「あなたがしようとしていることに取りかかりなさい」といい、イエスは自らが磔になる重い十字架を背負わされ、処刑場のゴルゴダの丘へと向かいます。イエスが12人の弟子である使徒達に言った最後の言葉「私があなたたちを愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、それが私の唯一の掟である」について、批評家の方は聖書の福音書の中で最も重要な言葉と解説しました。
私はこの番組を見て、以前ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサのことが頭に浮かびました。マザーテレサは、ヨーロッパのマケドニアの生まれで若くして女子修道会に入り、カトリックのシスターになります。18歳のときインドのカルカッタにある修道院に教員として送られます。その後、彼女は貧富の差と飢えや病に苦しむインドの現実に直面し、修道院を出てカルカッタのスラム街に入ります。マザーテレサは「飢えた人、家のない人、裸の人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのない全ての人、愛されない人、誰からも世話されない人のために働く」と宣言し、生涯を苦しむ人の救済活動に捧げました。マザーテレサは、キリスト教のシスターとして神の子イエスの最後の言葉「互いに愛し合うこと、それが私の唯一の掟である」をこの聖書の福音書から知り、忠実に実践したことが分かります。
仏教は、慈悲の宗教と言われることがありますが、キリスト教の愛と慈悲とは互いに通じるものがあると思います。著名な仏教学者渡辺昭宏師は、著書の中で、慈悲について「仏教の教えの基本になっている愛は、ふつう漢字では慈悲と書き表す。この中で慈というのは他の人に幸福を与えることであり、非とは他の人たちを不幸から救い出すことである。仏教は慈悲の教えともいわれるように、その説く教えと実践とはすべてこの意味での愛にもとづく。慈悲は、自己を忘れて、相手の幸不幸を中心として考える真の愛である。個々の人々や、
ないしは動物や自然界にまで及ぶ慈悲の愛もこの法愛の一部分である。」と述べています。キリスト教も仏教もその目指すところは同じと考えます。