地獄と極楽について(2022年3月テレフォン法話)

 今月は、地獄と極楽について考えます。
 先月本屋で新刊コーナーを見ていて「眠れないほど面白い地獄の世界」という本が目に留まりました。買って読んでみましたが、面白いどころか夜眠れないほど恐ろしい地獄の世界が書かれています。日本で地獄・極楽が知られるようになったのは、平安時代の中頃、天台宗の本山比叡山の源信が往生要集を書き上げ、その中の地獄や極楽の様子が面白いと貴族の間で大ベストセラーになったことから始まります。
 地獄は、人は死ぬと49日間の冥土の旅をしますが、その旅の中で閻魔大王を中心とする十王に裁かれ、生前の行いによって六道という六つの世界のどこかに生まれ変わるとお経に書かれています。その中で一番悪い世界が地獄です。ですから、生前よほど悪いことをした人が行く世界となります。
 地獄は、生前の罪の重さによって八つの段階に分かれています。本に書かれている地獄の様子ですが、最も罪が軽い者が行くのは等活地獄で罪状は殺生です。殺生は生き物を殺す罪ですので人間誰もが犯す罪となります。等活地獄では、出会う者同士が鉄の爪で引き裂き合い、地獄の鬼に切り刻まれ、硬い嘴をもった虫共に死肉を食われます。いくら死んでも鬼どもに生き返らされさらに恐ろしい目にあいます。最も罪が重い者が行くのは8番目の阿鼻地獄で、罪状は殺生から仏を傷つけるなど八つです。ここでは、飢えて渇くあまり自分の体を食い尽くし、鬼が鉄のペンチで口を開けさせて真っ赤に焼けた鉄の塊を食べさせます。他にも数えきれない地獄の責め苦を受け続けます。
 往生要集には、恐ろしい地獄とは無縁な極楽浄土についても書かれています。
極楽では、光り輝く阿弥陀如来や菩薩たちから直接仏の教えを受けることができます。極楽には一切の苦しみがなく、際限なく楽しみを受けることができ、すべてのひとが愛に満ちあふれて、母のような慈愛に満ちているそうです。
 ではどうしたら極楽浄土に行けるのか、源信の後に続いた浄土宗の宗祖法然、浄土真宗の宗祖親鸞は、阿弥陀仏の「衆生を救って浄土へ往生させたい」という本願を信じて、ただひたすら、「南無阿弥陀仏と称えなさい」と教え、鎌倉時代日本中に広まりました。
 なぜ、仏教の開祖釈迦の教えにはない地獄や極楽が人々の間に広まったかを考えると、二つの側面があると思います。一つは倫理的な面です。人は煩悩という限りない欲望により様々な罪を犯します。罪の抑止につなげるため悪いことをすると地獄に落ち、良いことをすると極楽に行けると教えてきたと思われます。もう一つは人の心の持ち方の面です。苦しいつらいことばかり考えると心が地獄になります。反対に楽しいこと、他の人に喜んでもらうことを中心に考えると心が極楽になります。この本の前半に「執着のたどり着く先こそ地獄?」の一文があります。執着とはこうしなければいけない、これはだめ、これが欲しいといった心にこだわりを持つことです。執着を持つことが地獄で、執着を捨てて心が自由になることが極楽ということでしょうか。
 何年か前、市内の高齢者施設でどうしたら極楽に行けるかについて話しましたが、私の言った結論は「極楽に行くには、今自分が極楽にいることに気付くことです。」でした。


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