今月は、「人は命の期限を告げられた時、残りの人生をどのように生きるか」について、教えられたことを話します。
令和4年1月21日新潟日報朝刊の55歳で亡くなられた同社記者の訃報を見て、ついにその時が来てしまったと落胆した読者の方が多くおられたと思われます。亡くなった記者は、平成31年2月新潟日報に「52歳記者のがん日記」と題する闘病記を連載し、亡くなる前月12月29日掲載の「54歳記者のがん日記」まで94回に及ぶ壮絶ながんとの戦い、命の重さを書き連ねました。
最初のタイトルは衝撃でした。半年前の7月体調が悪く近くの病院を受診しCT検査を受けたところ、すい臓と肝臓にがんが見つかり、紹介された県立がんセンターの医師から「もはや手術はできないので化学療法しかないが、抗がん剤の効果がなければ数か月の命と言われたそうです。記者は、「まるで死刑判決を受けたようだ、死の恐怖に身がすくんだ」と言い、奥さんに話したら号泣されたと書いています。がんを宣告された日の日記に「無念の極みだ。けれど絶対に望みは捨てない。1日1日を全力で生き抜く。その努力をひたすら積み重ねる。」と書いたそうです。以来3年半にわたり病状の進行と抗がん剤の副作用に苦しむ闘病の様子、記者としての仕事に打ち込む姿、高校のバンド仲間から声がかかり30数年ぶりにロックバンドを組んだ4人が練習を重ねて4度のライブを開催し、記者は強まる苦痛の中必死にドラムを叩く喜びなどが書かれていました。しかしついにその日が来ました。すい臓がんと診断されてから3年2か月、医師から抗がん剤治療を打ち切ること、しなければならないことを早めにやっておくよう言われたのです。
死がまじかに迫ったことを息もしづらい苦痛の中で感じ取った記者は、ほとんど何も食べられないまま、亡くなる22日前の12月19日5度目最後のライブに臨みました。極端な筋力低下で満足に動かない手足で必死にドラムを叩き8曲1時間の演奏をやり遂げました。12月29日の最後の闘病記でこのライブにより「すべてをやり終えた。」と言っています。また、同じ紙面で「こうして書き残せたことは、筆者自身とともに読者にとっても「前を向いて生きよう」という力になったはずと信じている。」と書いておられます。実際、記者の闘病記を読んだがんに苦しむ多くの方から、「つらくとも前を向いて生きる姿に勇気をいただきました。「がん日記」は私の心の支えでした。ありがとうございました。」という手紙が日報に寄せられました。最後まで、読者に大切なものを伝えたいという新聞記者魂を貫かれたのです。
この記者に教えられたのは、がんになって医師からあとどのくらいの命と告げられた時、しばらくは絶望して落ち込んでも、大切なのは残された命の期間をどう使うか考え、最後まで自分らしく全力で生き抜くことだと分かりました。
釈迦の言葉に「天上天下唯我独尊」がありますが、人は宇宙でただ一人しかいない貴重な存在であることを意味します。人間だけが命を自分の思うとおり自由に使うことができる、幸せな存在であると言っておられると考えます。記者は、「ようやく終わった。ご愛読ありがとうございました。」と結びました。