良寛さんの悟りについて。(2018年9月テレフォン法話)

今月は良寛さんの悟りについてお話いたします。
良寛さんは越後出雲崎の出身で母親は佐渡の相川の人です。良寛さんは新潟で最もよく知られたお坊さんですが、県内だけでなく日本でいや世界でも大変有名です。良寛さんがよく知られているのは、主に数多く残された優れた漢詩や和歌、俳句、書、また村の子供たちとかくれんぼをしている逸話といったものからですが、真に大切なことは厳しい修業の果てに仏教の教えを完全にご自分のものにされたということではないでしようか。
仏教は悟りの宗教といわれていますが、悟りとは正しい考え方、正しい生き方を身に着け、いかなる時にも心が乱れることなく、安定した精神状態を保ち続けることを意味します。良寛さんはほぼ完全な悟りの境地に達した歴史上数少ない僧侶の一人といえます。
良寛さんは大変多くのことを悟られましたが、そのどれをとっても私には到底無理なことばかりです。今日はその一つの無欲について解説します。
良寛さんの無欲、何の欲も持たない逸話の一つとして伝えられているのが、良寛さんが夜五合庵で寝ているときどろぼうがきて盗むものを探しますが、何もないので仕方なく良寛さんが寝ている敷布団をはがしにかかります。そこで泥棒に気付いた良寛さんは体をづらして泥棒が布団を取りやすくしてやったというお話です。
先日新開で良寛野の花の歌という新刊書の紹介が載っていて、その本の中に「こと足らぬ 身とは思はじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり」という良寛さんの和歌が入つていました。およその意味は「自分に何か足りないものがあるとは思ったことがない、五合庵の柴の戸を開けると、素晴らしい月と月光に照らされた野の花を見ることができるではないか、他に何がほしいというのか」ということかと思います。
お金も家も地位も女性もいらない、自分に深い感動を与えてくれる月や花といった素晴らしい自然を目にすることができれば、他に何もいらない。これが良寛さんの無欲の境地かと思います。
私のように何の悟りも得ていない者にとって、良寛さんの無欲の境地には遠く及びませんが、人間にとって深い感動を知ることが何よりの喜びであるということだけはよくわかります。ただどんなものに感動するかは人それぞれだと思います。私の場合は人の心に感動を覚えます。例えば、テレビで国境なき医師団がシリアで空爆で傷ついた子供たちを、危険も顧みず必死に治療している姿を見たり、目が見えない若者が小さいときからピアノの練習を積んで、国際大会で優勝して控えめな表情で喜びの会見をしている姿を見ると涙が出るほど感動します。
今朝も知り合いが遠方から自分で栽培した菊を本堂へ供えてと言って一抱え持ってきてくれました。人間の世界にはなんと感動することが多いのか、これ以上のものはないと良寛さんの無欲の境地に心から共感します。
以前良寛さんの本を読んでいて一番最後の文に大変感動しました。それは良寛さんの葬儀に500人を超える村人が参列したというところです。歴史上高名なお坊さんでそれほど庶民に慕われた方はいないと思います。良寛さんが周りの人たちに深い感動を与えた証しと思われます。


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