「煩悩」について(2021年9月テレフォン法話)

 今月は、「煩悩」について話ます。煩悩とは仏教の言葉で人の持つ限りない欲望を意味します。自分自身や他を苦しめる深い心の闇に包まれた人間だけが持つ煩悩とは何でしょうか。
 最近も、なんでこんなことがと思わせる恐ろしい出来事がニュースで報道されました。東京の小田急線の車内で無差別に10人の乗客に切りつけ、若い女性が重傷を負った事件がありました。逮捕された36歳の男性は「約6年前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思った。誰でもよかった。」と供述しています。また、東京の地下鉄駅構内で男性会社員が硫酸をかけられて上半身にやけどを負い、目が見えないと話しているという事件も発生しました。犯人は4日後に沖縄で逮捕され、元同じ大学のサークル仲間と判明したようです。 
 連日報道される悍ましい出来事の根底に煩悩があります。 仏教の考え方では、煩悩が起きるのは人の心に潜む三つの毒「貧(とん)・瞋(じん)・痴」によるとされます。貧はむさぼることをいい、やりたいこと、ほしいことにこだわり続けることを意味します。瞋は怒りを意味し、腹を立てることです。最後の痴はおろかさを意味し、間違った考えを持つことをいいます。もしこの煩悩を無くすことができれば、その先には人間本来の仏の心、清らかで美しい心が現れます。
 どのようにしたら煩悩を無くすことができるか、仏教の世界で長い間追及されてきましたが、血のにじむような修行の果てに様々な道が開かれました。
 その一つに「無私・無我の境地」があります。文字通り私が無い・我が無いを知ることを意味します。人は自分があると思っていますが、実際には目に見えない様々な原子・分子が一時的に集まって私となっているにすぎず、私が死ぬことによりバラバラになって他のものの一部になるのであり、あると思っているのは私ではなく様々な原子・分子に過ぎないのです。この無私・無我の境地になることができれば自分は初めから無いのだから何と思われようと、何と言われようと、何をされようとかまはないといった気持ちになれます。このように自己中心的な考えを無くすことができれば、本来持っている他を思いやる美しい心が湧いてくるはずです。自分よりもっと苦しんでいる人がいるはず、その人たちのためにできることはないか日々思いやることが仏の境地です。
 仏の境地を見事に表している宮沢賢治の詩「雨にも負けず」を朗読します。
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なカラダをもち 欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて東に病気の子供あれば いって看病してやり 西につかれた母あれば 行って稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくていいと言い 北にケンカや訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい

 自己の仏の心に気付くことができれば、煩悩の入り込む余地などありません。


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