「小説家・瀬戸内寂聴さん」について(2021年12月テレフォン法話)

 今月は、「小説家・瀬戸内寂聴さん」について話ます。
 寂聴さんが11月9日99才で亡くなられました。どんな言葉でも表現できない凄すぎる女性でした。女性が男性より低くみられていた時代、思う存分自由にやりたいこいとをやり、源氏物語の現代語訳全10巻など400を超える作品を世に送って文化勲章を受章しました。私は、本名瀬戸内晴美さんが女流小説家として人気絶頂のなか、51歳の時岩手の中尊寺で得度を受けて僧侶となり、寂聴としてのその後の生き方がもっと凄いと感じています。
 寂聴さんは僧侶になって、京都に寂庵という自宅を兼ねたお寺を開きました。寂庵では定期的に法話の会を行い、会場一杯の様々な悲しみ、苦しみ、孤独といった悩みを抱える人々に寄り添い、皆さんを笑顔に変えておられました。その後、岩手の古刹天台寺の住職に就任し、広い境内にゴザを引いてあおぞら説法を始めました。毎回何千人もの人が寂聴さんの法話を聴くため全国から駆け付けました。テレビであおぞら説法が放映されましたが、おりしも東日本大震災の後で、家族を亡くして涙にくれる多くの方が寂聴さんを見つめて座っていました。寂聴さんは言いました「悲しい時はいくら泣いてもいいのよ、涙が枯れるまで泣きなさい。ただ朝の来ない夜はないの。いいことの後には悪いことがある、悪いことの後にはいいことがある、世の中この繰り返しなの、私もずーっとそうなの」と涙顔の女性の肩を撫でておられました。
 なぜ、寂聴さんが苦しむ人を救う法話ができるのか考えてみました。要因は 三つあると思います。一つは、寂聴さんが優れた小説家であるということです。寂聴さんの小説を少し読んでみますと、人や情景に対する驚くべき観察力を持っていることが分かります。また、これも驚くべき種類の言葉を最も適切に使い分けていることが分かります。寂聴さんはその鋭い観察力で相手が何を苦しんでいるか見抜き、最も心に響く言葉を選んで届けていたのです。二つ目は、ご自身も様々な悲しみ苦しみを背負って99年生きてこられたということです。ですので相手の苦痛がよく分かり、自身が乗り越えた心の持ち方を教えたいと考えたと思います。
 実際、寂聴さんの人生は悲しみ、苦しみが渦巻く壮絶なものでした。真珠湾攻撃の2年後、結婚のため中国の北京に渡り娘を設けましたが、終戦1年後想像を絶するご苦労をされ3人で故郷の徳島へ戻ることができました。そこで目にしたのは空襲で焼け野原になった町と、母と祖父の死でした。また、娘を残して夫の教え子の若い男性と東京へ駆け落ちしましたが、父からお前は鬼になったんだ、二度と帰ってくるなと言われたそうです。寂聴さんも苦しみ、亡くなるまでご自身のことを「私は4才の娘を捨てた母です」と話されました。さらに、華々しく文壇にデビューしましたが、書いた小説がエロ小説と批判され、5年間干されて文芸誌に書くことが許されなかったといいます。
 寂聴さんは、娘を置き去りにしたことを除いてそのことごとくを乗り越えてきたのです。三つ目は、その天真爛漫な明るさです。寂聴さんの法話の席では笑い声があふれ、気がついたら苦痛を感じていた気持ちが薄れていたと皆さん言います。寂聴さんが亡くなられて、黒柳徹子さんの言葉「みんなの味方がいなくなった」が印象に残ります。


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