「大切な人を失った悲しみ」について(2021年4月テレフォン法話)

 今月は、「大切な人を失った悲しみ」について考えたいと思います。私は55年程前僧侶となり、数多くの葬儀でお勤めをさせていただきました。葬儀の場で大切な人を失って悲しみに打ち沈んでいるご遺族とお会いし挨拶をするわけですが、その時ご遺族にお話したことが間違いだったことに、この1年ほどの間に出会った言葉に気づかされました。
 私は、ご遺族に少しでも早くお元気になっていただきたいとの思いから「どうぞあまりお力落としのないように」とか「早くお元気になられてご主人様を安心させてあげてください」といった言葉をかけていました。私が間違いに気づかされた言葉とは「愛が深いほど悲しみが深い」「悲しむことは最大の供養になる」「生前よりも死後の方が濃密な関係になる」「苦しみの中にいて、苦しみのままで幸せに生きることができるのです。」また、東日本大震災で石巻市の大川小学校6年の娘愛さんを亡くした母親の言葉「10年たったけど悲しいままですね。愛を思い出して話しながら、泣いたり笑ったりすることが、供養になるんだろうね。」臨床心理士として多くの現代人の悩み、苦しみ、悲しみに寄り添い続けてきた諸富祥彦さんの著書「悲しみを忘れないで」の言葉「もっとしっかりしてよ、こんなことくらいでさわぐなんて、もっと強くならないと、こんな言葉がいちばんよくありません。励ましたりしなくて、かまいません。」私はこれらの言葉から悲しむことがどれほど大切なことかを思い知らされました。        
 悲しんでいることはそれだけ亡くした大切な人と心の奥深いところでいつまでも一緒にいて、互いを強く思いやっていることに他なりません。
 このことに気づいて、以前読んだことがある、弘法大師空海・御大師様の著書の中に悲しみの大切さを世に示したお言葉があったことを思い出しました。
それは御大師様の十大弟子のお一人智泉さんが若くして亡くなられたとき葬儀の追悼文で述べられた言葉です。智泉さんは御大師様の甥で9歳で弟子入りし
山岳修行等絶えずお側にいて、高野山開創に際しては山に籠って諸堂建立等に尽力された方です。
 御大師様は追悼文の中でこのように述べられています。「思いがけず早く亡くなって私を悲しませるとは。あわれなり、あわれなり、あわれの中のあわれなり。悲しいかな、悲しいかな、悲しみの中の悲しみなり。この別れには涙が止まりません。哀れなるかな、本当に哀れなるかな、悲しいかな、悲しいかな、重ねて悲しいかな。」
 私はこの言葉を知って大変驚きました。御大師様は唐に渡って真言密教を極め、帰国して真言宗の開祖となり、この世でこの身このまま仏となる即身成仏の教えを弘められた方です。全てを悟られ、死は誰にでも突然訪れるごく自然の現象であることは最もご理解されておられるにもかかわらず智泉さんの死を深く悲しんでおられる、御大師様は人の抱く悲しみの心は仏の心の表れと悟られておられたと推察いたします。
 私は、悲しみの大切さに思いをいたしてより、これまで悲しむ人の心情に十分寄り添えなかったことに後悔と申し訳ない気持ちです。私が、これまで葬儀の場でお会いした悲しみに暮れる皆様に申し上げます。「悲しみの涙を流されるお姿は、たとえようもなく美しい。それは仏さまが流される涙です。」


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