今月は、釈迦の最も重要な教えの一つ諸行無常についてお話します。先月澤木興道老師のお言葉についてお話した際、諸行無常はこの世に存在する全てのものは絶えず変化し続けるという教えであり、人間のような生き物は死によって別のものに変り、物は腐ったり壊れたりして別のものに変ると言いました。しかしそれは一部のことで人の考えや環境などあらゆるものが変化することが諸行無常の本当の意味合いです。
釈迦の寓話の一つに「砂の城」というお話があります。お話の概要は、釈迦が数人のお弟子さんを伴ってインドのとある村に差し掛かかった時、5~6人の男の子が砂でお城を作って遊んでいるのが目に留まりました。一行が立ち止まってその様子を見ていると一番小さな子供が立ち上がって歩き出したとき、大きな子供が作っていた砂のお城を足で引っ掛けて端の方を少し壊してしまいました。するとお城を作っていた大きな子供は大声で怒り出し小さな子供を叩いたり蹴ったりしだしました。他の子供も一緒になって小さな子供に暴力をふるっているのを見て弟子の一人が止めようとしましたが、釈迦はもう少し様子をみようとそのお弟子さんに言いました。
程なく遠くから子供たちの母親らしい声が聞こえてきました。「みんなお昼ご飯だよ、早く帰っておいで」、「はーい」と声を揃えて返事を返した子供たちはいっせいに母親の方へ駆け出しました。後にはめちゃめちゃに踏みつぶされた砂の城が残されていました。というものです。
この寓話は、人の考えは変わっていくものであり、大事なものだと思ってももっと大事なものが出てくるとそんなものはどうでもよくなる。したがって他人の言葉を気にしたり悩んだりする必要はない、必ず変わる他人の考えに振り回されることはない自分の考えで生きなさいと釈迦は教えていると思います。
もう一つ諸行無常に関して感動した経験をお話しします。それは東日本大震災の翌年7月に開催した私の寺が所属する宗派の佐渡支所檀信徒総代会でのことです。講師は東日本大震災での原発事故で全住民が避難を余儀なくされた福島県浪江町の同じ宗派の住職さんでした。その住職さんは、原発事故で家族ともども福島市に避難したが、檀家の人たちも全員ばらばらになって浪江町から全国に避難先をもとめて散り散りになってしまった。連絡が取れない檀家も多数あるとのことでした。また、檀家からお葬式の連絡があるとどんなに遠方でも出かけていき葬儀が終わると短い滞在許可を取り、お骨をもって浪江町のお寺へ出向いて本堂に安置してくるのだそうですが、そのお骨がだいぶたまっていつお墓に納骨できるかわからないと苦しい胸の内を語られました。
最後に住職さんは力強い声で講演を締めくくりました。「仏教の基本は諸行無常です。この世に起きることは必ず変化するという教えです。わが浪江町は今放射能に覆われ誰一人住むことはできません。しかしながらこの世は諸行無常であり、必ずや皆が元のように仲よく楽しく暮らせる浪江町に変ります。」
この言葉を聞いて、諸行無常とは諦めなければ必ず明るい未来がやってくる
という意味だと確信しました。
諸行無常の子供たちのお話、「自分お考えで行きなさい」や
そして浪江町の「諦めなければ明るい未来がやってくる」は良いたとえ話でした。
有難うございました。
坂本秀明様
正覚寺テレホン法話にコメントいただきありがとうございます。私は、自由律の俳
人種田山頭火の句「無にはなれるが空にはなれず」
の意味するところを考えていましたが、最近になって空は自在に変化するつまりは諸
行無常を一文字であらわしていると考えましたので、
山頭火は行乞托鉢の旅を続けて自らの苦を無くす無の境地に達することができても、
自らの殻を脱ぎ捨て新境地に変化到達する無から有
への切り替えができないジレンマを詩っているのではないかと考えています。自分を
自由自在に諸行無常することができたら、一度の人生が
何倍にも深いものになるかと思います。諸行無常の一考察です。
諸行無常の一考察です。