以前お釈迦様が人間の四つの大きな苦しみとして、生老病死の四苦を挙げられたことをお話ししましたが、今月は四苦を上回る苦しみについてお話ししたいと思います。
釈迦は、この世は苦しみの世界であると言われましたが、中でも生まれてくる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみの四苦をどうしたら無くすることができるかを知るため厳しい修業を重ね、ついに四苦を無くすることができた、悟られたことから人々にその教えを授けてインド各地を80歳で亡くなるまで回られたといわれています。
私は釈迦の弟子の一人の僧侶でありながら、70歳の今日まで釈迦の悟られた四苦を無くす道に到達しておりません。なんとなくこんな風に考えたらいいのかなといった漠然としたものしか理解できていません。
しかしながら、いつのまにか四苦よりも恐ろしい苦しみがあるのではないかと思うようになりました。四苦は確かに怖いと思いますが、すべて自分だけの問題です。何とかよく考えていけば、自分の気持ちを整理していけば、老いることも、病気になることも、死ぬことも誰にでも平等にやってくるものですのでいつかあきらめることや受け入れることができるような気がします。その際仏教の教えを知っていただくと気持ちの整理がしやすいような気がします。
ただどうしても気持ちの整理ができそうもない苦しみがあると思います。それは自分の意に反して、自らの不注意から人の命を奪ったときの苦しみです。
例をあげれば、車の運転中に何らかの原因で小学校の児童の列に突っ込み子供を死に至らしめた人や、母子家庭の母親が幼い二人の男の子がお風呂に入っているとき、寒いといけないと思って電気ストープをつけておいて何かに引火し火災になって二人の子供を焼死させてしまった人をニュースで知りましたが、このような人たちに何か救いの道はあるのでしょうか。私がそのようなことになったら自らを救うことはとてもできません。たぶん普通の人であるほど真面目に生きている人であるほど、その苦しみは際限なく心に覆いかぶさり、何もほかのことを考えることはできないと思います。生きていても心は死んでしまっているはずです。
先ほど書いましたように四苦は誰にとっても苦しいものですが、少なくとも自分が苦しめば済みます。しかし、こころならずも奪ってしまった人の命はどんなに謝っても、お金を払っても帰ってきません。どんなにか楽しい、愛される人生が待っていたであろう命を永遠に奪ってしまった後悔の念は一生消え去ることはないでしょう。
私にはこのような苦しみを持つ人を救うことはとてもできませんが、沢木興道老師の人にはそれぞれ違った運命というものがある、いつでもどこでも自分の運命に堂々と立ち向かっていけばいいじやないかという講話のお言葉が思い浮かびます。あらゆる苦しみに逃げずに真正面から向かっていくことは人間だからこそできることなのでしようか。