今月は、伝教大師最澄の大変有名な言葉「一隅を照らす」についてお話しいたします。
最澄は天台宗を開かれ、真言宗の宗祖弘法大師空海とともに平安時代を代表する高僧ですが、空海に比べて地味な印象があります。
しかしながら、鎌倉時代に新たに宗派を開いた法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などそうそうたる高僧が最澄が開いた比叡山の天台の宗門で学んだことを考えると、最澄の日本仏教界に残した偉大な足跡は空海に並び称されるものと言えます。さて冒頭言いました最澄の言葉「一隅を照らすこれ即ち国宝なり」は、一隅は一つの隅っこですのでほんの少しのところを照らすことができれば、その人は国の宝といえるという意味かと思います。
私はこの言葉を思うと自分の気持ちがずいぶん楽になります。そんなにいろいろなことができなくても何か一つできればいい、あまり世の中で役に立たなくてもほんの少し役に立てばいいということですから、あまり無理をしないで自分のできる範囲で生きていけばよいと言われている気がします。
確かにみんなが自分のできる範囲で何か人の役に立ちたいと考えていれば、みんなで助け合えば暮らしやすい世の中になるはずです。そう思うと最澄が言われるようにほんの少しでも人の役に立っている人は国の宝、国にとって大切な人といえるんだと思います。
そう思って周りを見渡すと、みなさんご自分は気づいていないかもしれませんが何かしら人や動物にとって有難い、役に立つことをされていることに気づかされます。私の身近で早くに主人を亡くし一人暮らしをしている年配の女性がおられますが、その方はご自分に縁のある人達、子供や孫、兄弟、ご主人の兄弟、親戚、友人といった人達に絶えず電話をして何か問題が起きていないか心配をして聞いてきます。忙しいときに電話がかかってきますと迷惑がる相手方もいるようですが、いくら自分に縁がある人といえどもそんなに心配したり、近況を知らせるために電話をしてくれる人が他にいるでしようか。私にはとてもできません。その方から電話をもらうと人の気持ちの優しさを強く感じることができ、あなたもー隅を照らしていますよとつぶやいてしまいます。
他にも、私は数年前からあるボランティア団体に所属して大勢の先輩の皆さんに交じつて活動していますが、大変長期にわたって活動している方々が同じように「私なぞは何年やっても大して役に立っていない、ただ長くやっているだけ」と言われます。そんな会話をしていますとつい心の中で「とんでもない、あなたも立派に一隅を照らしていますよ」とさけんでしまいます。
こんなふうに自分の周りには一隅を照らしている人ばかりです。たまに遠くに千遇、千の隅ですがを照らしている人をテレビの映像を通してみることがありますが、私はこれでいい自分のやり方一隅を照らすでいい、これからもこれでやっていこうと心に決めています。なぜなら最澄さんが一隅を照らせば国の宝だと言ってくれていますから。
本当に、言われる通りだと思います。私たちの年代の方々の子供時代は、皆貧しく、衣服や履物に継ぎ当てし、鼻水を垂らした、子供時代で、皆同じような姿をしていました。一部の金持ちは別として、しかし、今と違って、良い面もたくさんありました。困ったら皆で助け合う、喧嘩もするが、上級生が正否の判断を下して、皆、納得して生きていました。集落全体で問題解決を行う、家に鍵はなく、皆友達の家に上がり込み、夕食も一緒に食べたりと、なんともほのぼのした風景がそこにありました。泥棒が来ても取るものがない、その日一日を精一杯生きるのに頑張っていた時代でした。そこには、皆、一隅を照らす存在だらけの時代でした。皆で弱い人を助ける思いの人ばかりでした。今は物がありふれて、ありがたさ、人を思う道徳心が本当に欠けて、ある意味では犬、猫のほうが思いやりは上と思う。