今月は、「死亡交通事故を起こした人の苦しみ」について考えます。
朝新聞を読んでいたら、佐渡市内で発生した高齢女性が亡くなった死亡交通事故の記事が目に留まりました。事故を起こした方の名前を見てわが目を疑いました。私が所属しているボランティア団体の仲間の男性の名前でした。いつももの静かで少しはにかんだような笑みを浮かべる男性の顔が目に浮かび、彼が今想像を絶する苦しみの中にいると感じました。彼の苦しみは、人の苦しみの中で最も大きな苦しみの一つと考えます。
仏教の開祖釈迦は、生老病死をはじめとする人が抱くあらゆる苦しみを無くす道を求めて6年に及ぶ厳しい修行を積み、悟りを開いて人々に教えを説きました。釈迦の死後、釈迦の教えに繋がる様々なお経が世にでましたが、その一つに空の教えを説く般若心経があります。空とは空の字を書き、この世に永遠のものは一つも存在しないことを意味します。人の命もやがて死によって無くなることから、いま苦しんでいることは死とともに夢の中のことになります。人は皆苦しまなくてもいいことに苦しんでいると説きます。ただこの教えは、自らが歳をとり病気になり死を迎える苦しみを無くす道を中心に示すものです。人の命を故意でなく奪ってしまう苦しみには、この空の教えは救いにならないと考えます。
釈迦の教えの重要なものに慈悲がありますが、人の苦しみ悲しみを無くしてあげたいと願い寄り添うことを意味します。人は生まれながらに慈悲の心を持つ仏であると説くのが、日本に伝わった大乗仏教の根本思想です。人は苦しんでいる人を助けたいとする慈悲の心を持つが故に、正反対の人に苦しみを与える死亡事故を起こしてしまったとき地獄の苦しみを受けることになります。人間以外の生き物は、このような苦しみを持ちません。例えば、象が飼育員の人を踏みつぶして死亡させたとしても、象は何の苦しみも持ちません。象は慈悲の心を持つ仏ではないのです。
真言宗では、通夜や葬式のとき最初に懺悔文という短いお経を唱えます。意味は、「私が昔からつくってきたいろいろの悪い行いは、むさぼりと怒りと無知により生じたもので、いまみ仏の前において悔い改めます。」というものです。人は皆過ちを犯すもので、絶えず懺悔し悔い改める心構えが大切と諭します。
仲間の男性は誰よりも控えめで謙虚な人柄ですので、日々深い懺悔の思いで過ごしていると思われます。大乗仏教では、人は生まれながらにして智慧を身に着けていると教えます。智慧は知識ではなく、人として生きる正しい考えを意味します。彼は、懺悔の思いとともに亡くなった方とそのご遺族にどのように向き合えばよいか、今苦しみの中で自らの智慧に問いかけていると考えます。必ずや、彼の智慧は彼が取るべき正しい道を示してくれると確信します。
数日後、迷った末思い切って彼に電話をしました。彼は「自分の不注意から、大変な事故を起こしてしまった。」と小さく押し殺すように話しました。私は、「みんな心配してるから」としか言葉がでませんでした。
彼に云いたかった、沢木興道老師がある講話の場で語られた次の言葉があります。「人にはそれぞれ運命というものがある。いつでもどこでもだれでも、自分の運命に堂々と向かっていけばいいじゃないか」