「死と向き合う僧侶の役割」について(2026年4月テレフォン法話)

 今月は、「死と向き合う僧侶の役割」について考えます。
 新潟日報の地方版に「僧侶になった理学療法士」のサブタイトルで、40代の女性が紹介されました。読んでみると、理学療法士として市内の病院で働いている女性が担当した、末期がんの50代女性患者が「私、死んじゃうのかな」とポツリと語った。女性の気持ちを受け止めることができず答えに窮したことから、医療の知識だけでは患者の死に向き合うことはできないと考え、仏教を学びたいとの思いが募り得度をして浄土真宗の僧侶になりました。
 彼女は、「病院では患者さんが退院したり、亡くなったりした時点で医療職との関係が切れてしまう。将来は患者の生と死の両方を支える臨床宗教師のような理学療法士になりたい」と話しています。
 私は、佐渡病院に入院したときや現在新潟の猫山宮尾病院でのリハビリで理学療法士の方にお世話になっていることから、僧侶になった女性の患者への心構えに拍手を送りたいと思います。
 死に直面している患者さんにどう向き合い支えるか、僧侶になった理学療法士の女性の目標は大変難しいと思いますが、まずは自分自身が必ず死を迎えることを自覚することから始めるべきかと提案します。
 死が目の前に迫ったとき自身にどのように言い聞かせるか、どう話したら納得して死に向き合うことができるかを考えてみたらどうでしょうか。その際に拠り所とするのは、ありがたいことに僧侶の場合仏教の教えがあります。仏教の開祖釈迦は、生老病死を始めとする人の持つあらゆる苦しみを無くす道を求めて厳しい修行に勤め、ついに悟りを開いて人々に教えを説きました。
 釈迦の重要な悟りの一つに諸行無常があります。諸行とはこの世にある全てのもの、これには全ての人が含まれます。無常は常で無いと書きますが、この世にあるものは全て変化するのであり同じ状態でいるものはないことを意味します。諸行無常は、人は必ず死んで他のものに変化するのが宇宙の法則と教えています。
 それでは、死を前にして人はどのように生きたらよいのか。新聞でヒントになる記事を見ました。臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の特別展が大阪市立美術館で開催中のイベントリポート記事の中に、妙心寺派管長さんのお話しが載っていました。お話の中で、展示されている微妙大師の書「少水魚有楽」について説かれました。少水は少ない水と書きます。少水魚有楽はしょうすいのうおにたのしみありと読みます。管長は、「わずかな水の中で死を待つばかりの魚に、楽しみなどあるはずがない。それが世間の常識です。しかし大師は「そうではない」の意でおっしゃったのです。いつ何が起こるかわからない人生をありのままに受け入れ、その一瞬を生き切る。そこにこそ楽しみがあると説いたのです。」と解説されました。
 どんな人でもいつ死ぬかわからない、であれば今生きている一瞬を楽しむのが正しい生き方と微妙大師の言葉は教えています。患者さんが「私、死んじゃうのかな」と話されたら、優しく微笑んで「私も死ぬのは同じですよ、皆さん同じです。でも貴女はお元気です、お好きなことをなさって楽しんでください、そしたらご家族の方が安心しますよ、何かお手伝いできることがあったらおっしゃってくださいね。」と語りかけたらいかがでしょうか。


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