「大きな喜び」について(2024年7月テレフォン法話)

 今月は、「大きな喜び」について考えます。諸橋精光さんの「心なごむ仏教おはなし絵本」を手に入れましたので読んでみました。諸橋精光さんは、長岡の同じ真言宗豊山派の住職さんで、大変絵が上手でほのぼのとした表情の子供やお坊さん、動物たちが登場する仏教説話を中心とした絵本、超大型紙芝居などを数多く世に出されており、宗派の冊子等で作品を目にすることがよくあります。
 この絵本には、4つの仏教説話が掲載されていますが、その一つ「ライオンと山犬」について紹介します。概要は、ある日のこと、ライオンが獲物をおって森をかけているうちに、あやまって底なし沼におちてしまいました。そこへひょっこり山犬がとおりかかります.ライオンをみてにげようとする山犬にライオンはたすけてほしいとたのみます。山犬は、今までたすけたやつに裏切られてきたことから、ライオンをたすけようか迷います。山犬は、たすけたやつに裏切られたときのくやしい気持ちったらない。でも、たすけてあげたときの気持ちはまたかくべつだ。やっぱりおれには、たすけたときの、すがすがしい気持ちのほうがたいせつだ。とおもいなおした山犬は、ライオンを沼からたすけだしました。それからというもの、ライオンは、山犬からたすけてもらったことをけっしてわすれずいつも獲物を分けてあげた。というものです。
 真言宗の重要なお経の一つに、理趣経があります。理趣経の真の意味を知ったとき少なからずショックを受けました。第一段に17清浄句が説かれ、17の性的快楽、性的欲望、愛欲に縛られること、欲望の赴くままにふるまうことを挙げて、菩薩の清らかな行いであると記されています。菩薩とは、観世音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩などのように悲しみ苦しむ者を救いたいとの強い思いから修行を積み仏となりますが、仏の世界には行かず、この世に残り悲しみ苦しむ者に絶えず寄り添う存在です。
 大乗仏教は、人は互いに助け合うことから生まれながらにして仏であると説きます。菩薩も仏であることから、人は生まれながらにして菩薩であると云えます。それゆえ、性的欲望であっても清らかな菩薩の行いと肯定されているのです。理趣経では、大きな喜びを意味する大きな楽と書く大楽の重要性が説かれています。大きな喜びは何によって得られるか、それは悲しみ苦しむ者を救いたいとする大きな欲により行動する菩薩の行いによって得ることができると教えます。反面、性的欲望や物質的な欲望はは小さな欲、小さな喜びと諭します。
 以前、いのちの電話の相談員としてボランティア活動をしている、高齢の女性に話を聞いたことがあります。いのちの電話に死にたいほど苦しいと言って1時間も2時間も電話で話す方がよくおられるそうですが、時々相槌をうつだけでひたすら話を聞き続けるそうです。そして、やっぱり私死ぬのやめますと言って電話が切れたとき、何とも言えない無上の喜びがわいてきて一人笑いをしているそうです。彼女は、大きな喜びを知る菩薩として生きておられると痛感しました。諸橋精光さんの絵本にでてくる山犬も、ライオンを助けたら裏切られて食べられるかもしれないと迷いながら、助けたときのすがすがしい気持ちのほうが大切だと考えライオンを助けます。山犬もまた困ったものを助ける大きな喜びを知る菩薩なのです。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です