「すごいとしか云いようのない日本女性」について(2026年9月テレフォン法話)

 今月は、「すごいとしか云いようのない日本女性」について考えます。
 NHKEテレに歴史上著名な人物像を探求する「知恵泉(ちえいず)」という番組があります。7月初め偶然知恵泉をみましたが、タイトルは「澤田美喜・二千人の孤児を救ったママちゃま」でした。見ていると画面に釘付けになり、感動の連続でした。澤田美喜さんは、なんと明治の大富豪三菱財閥の創立者岩崎彌太郎の孫でした。なに不自由ないまさにスーパーお嬢様です。女学生になった頃、海外とキリスト教に興味を持ちクリスチャンになります。彼女は自分の意志で外交官と結婚し、夫と共にあこがれだった海外生活をおくります。4人の子どもを育て帰国した美喜は終戦時44才でした。スーパーお嬢様の彼女に転機が訪れます。東海道線の列車に乗っていた時、憲兵のような男性に網棚の風呂敷包みを開けるよういわれます。開けると中には肌の色が黒い生後間もない赤ん坊の遺体が入っていました。男性から「お前の子だろう、ふしだらな女め」と罵倒され、美喜は即座に「いいえ、私の子ではありません」と応えます。その瞬間、彼女に神の啓示「お前が、日本中のこうした不幸な子供たちの母になってくれないか」が聞こえました。
 戦後駐留したアメリカ兵と生活に苦しむ日本女性との間に子供が生まれることが珍しくない時代、産んだ子供を育てられない女性が多くいたのです。彼女は、「両方の国からいらないといわれ、親からも邪魔者扱いされ、闇から闇に葬られる子供たちのための施設をつくる」ことを決意します。しかし、決意した彼女の前に様々な困難が待ち受けます。まず、施設の場所として三菱家が戦前所有し戦後払い下げられた大磯の別邸1万坪を買い戻すことにしましたが、当時の金でその資金400万が必要でした。次なる困難は、ホームができたことが報じられるとホームの敷地内に次々に子供たちが捨てられることでした。
 美喜は、毎日1万坪の広大な敷地を歩き回り、多い日は9人の子供が捨てられていました。収容者が200人を超え深刻な経営難に陥ります。つぎに、駐留軍の本部GHQが、「孤児を一ヶ所に集めるな」といってきます。すると彼女は、単身GHQ本部に乗り込み「日本国籍を持っている子供たちを育てて何が悪い」と叫びます。GHQの担当者は、沈黙するのみでした。さらには子供たちの就学の問題でした。差別を恐れ子どもたちを受け入れる学校がないのです。意を決した美喜は、敷地内に小学校をつくり、続いて中学校をつくりました。
 私が澤田美喜さんが孤児の救済に取り組んだことに最も感動したのは、その教育姿勢です。いずれ中学校を卒業して施設をはなれ社会に出たとき、この子たちには様々な差別、困難が待ち受けている、その厳しい社会で自分で道を選び自分で立ち上がっていく、そんな子供たちに育てなければいけないと考えたのです。
 施設で育った70代後半の男性が「ママちゃまは、施設を出た後のことを考えダウンしたあと自ら立ち上がる力を授けるため、全身で可愛がり、全力で厳しく叱られた。母親ですよ、あの人は」と語っていました。
 私はこの番組を見て、子どもたちからママちゃまと慕われた澤田美喜は、神であり仏でありそして母であると痛感しました。澤田さんの次の言葉があります。「人生は、自分の手でどんな色にでも塗り替えられるもの」


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