「33回忌の股仏」について(2022年7月テレフォン法話)

 今月は、「33回忌の股仏」について考えます。佐渡では、昔から33回忌の法要が最も重要な年忌法要とされており、親戚や5人組、友人等を招いて盛大に営まれます。
 私は33回忌法要の読経が終わると、参列者の方に次のようなお話をします。
「33回忌の法要は昔から大変おめでたいものとされています。このようにたくさんの花や団子、お供物を並べた立派な祭壇を設け、お経が終わると皆さんでお斎の宴席となるわけです。以前お斎の場でここはめでたい席なので歌を歌うと言って佐渡おけさを歌った方がいましたが、後に続いて何人もの方が歌われたのには驚きました。ではなぜ33回忌はおめでたいのか、二つの理由があると考えています。一つは、33回忌は弔い上げといってお葬式から始まった亡き人への供養が終了し、間違いなく成仏されることからきていると思われます。
 真言宗やいくつかの宗派では、死後十三仏と称される初七日のお不動様にはじまり33回忌の虚空蔵菩薩様にいたる13の仏様のもとで修業を積み、完全な仏になるとの考え方があります。供養が終わったことから、位牌を寺へ納め、個人墓を倒したりしました。
 もう一つの理由ですが、祭壇にお供えしてある股仏と呼ばれるお塔婆にその意味があると思われます。股仏は栗の木を長四角に切り、上部を二股に加工したものです。塔婆の上部が二股になっているのは、奈良時代に始まる神への信仰と仏教が混ざり合う神仏習合の考えがもとになっていると思われます。神仏習合はやがて神様は仏様の仮の姿である、逆に神様の仮の姿が仏様であるといった考え方になってきました。実際、私の寺の上の久知八幡宮の神様は、元は阿弥陀如来様であるといった古文書が代々久知八幡宮の宮司を勤めるお宅に残されています。このことから、股仏の上部が二股になっているのは33回忌で完全な仏になると、こんどは神様になるという神仏習合のあらわれであり、今後は仏の道と神の道両道を進んでいくことを意味していると考えます。
 東北地方のある地域で33回忌が終わると住職が片手で股仏を持ち上げ、これより仏さんは神様になって昇っていきますといわれる、とかかれた民俗誌の本を読んだことがあります。このように、仏が33回忌によって先祖神の神様の仲間入りをすることからおめでたいとされると考えます。
 テレビで生物学者の方が「人間以外の生き物は、人間のことを神様だと思っている」と話されましたが、そのとおりだと思います。神様とは、すごい、すばらしい、優れている偉大なる存在であることから、他の生き物からみたら自分たちができないことが全てできる、この世で生きていけるのも人間次第であることから、人はみな神様に見えるはずです。一方、仏様は悩み、苦しみ、悲しむ生きとし生けるものを救いたいとの思いから、この世にあらわれた存在です。仏教の教えでは人は皆生まれながらにして仏であるとし、弘法大師空海様は自分の中の仏に気付いた時が本当の仏になったときであると説いています。  
 人は、自分の周りにいる全ての人が神であり仏であると知って深く敬意を払い、自らも神、仏であると自覚して生きることが大切ではないでしょうか。


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