「禅の言葉」について(2025年5月テレフォン法話)

 今月は、「禅の言葉」について考えます。
 両津の本屋で「心が軽くなる83のことば禅」という文庫本が目に留まったので買いました。禅の言葉とは禅語といわれるものですが、中国や日本の禅宗の高僧が弟子や一般の人に短い言葉で仏教の教えの核心を説くもので、他に類をみない優れたものと考えます。
 最初のページに書が載っていて、説明文として「書は禅に似ている、奥深く豊かで、むずかしいようでいてやさしい、短い言葉でありながら、生きる力を与えてくれる、そんな禅語の数々を共に味わいたい」と書かれています。
 掲載されている禅語のいくつかを紹介します。最初は「主人公」で、副題は「本来の自分を目覚めさせよう」となっています。冒頭に、主人公も禅語の一つ。ドラマで主役を演じる人物のことではないんですね。主人公とは本心本性の自己、「真実のあなたの」のこと。俗世のホコリにまみれたいまのフツーのあなたは、主人公ではありません。と書かれ、最後に、純粋で、自由で迷いがなく、人を愛し、愛されたいはずの、本来の自分を目覚めさせましょう。自分の中の主人公を忘れずに生きましょう。と記されています。次は、曹洞宗の宗祖道元禅師が悟った「身心脱落」です。身は体、心は心、脱落は自分の中から捨て去ることです。人は様々なことに悩み苦しみます。道元禅師は、その様々な悩み苦しみを全て自分の体と心の中から捨てることが最善の方法と説いているのです。捨てるとは考えないこと忘れることを意味します。悩み苦しみを考えない、忘れることができる人は、人生の勝利者といえます。道元禅師は、只管打坐を修行の根本とする曹洞宗を立宗しました。只管打坐とは、一心に座禅に打ち込むことにより自分が自分がという執着が消え去り、代わって自己の中にある仏がみえてくる教えと考えます。
 宮沢賢治の雨にも負けずの詩を読むと、賢治は自己の中にある仏に気付いていたと感じます。雨にも負けずのなかに東に病気の子供あれば行って看病してやり、南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと云い、そういうものに私はなりたいと記されています。そこには自分のためではなく、自己の中にある仏の言葉として発していると痛感します。
 次に、良寛さんの言葉について考えます。良寛さんが越後国上山の五合庵に一人で住んでいた時、現在の三条市を大地震が襲い、死者1600余人という大惨事が発生しました。良寛さんの身を案じた与板の知人から見舞いの手紙が届けられましたが、その返信の中で良寛さんは「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これ災難をのがるる妙法にて候」と書いています。つまりは、災難に遭うときは遭えばいい、死ぬときは死ねばいいと言っているのです。これは、良寛さんが仏教の縁起の思想にもとづき述べていると思われます。縁起の思想とは、この世のことは全て原因があって起きるのであり、自分の力ではどうすることもできないと知ることです。人は必ず死にますが、良寛さんの云うとおり自分ではどうすることもできない因縁によるものであり、静かに死を受け入れることに尽きるのかもしれません。その場合「よくぞ人に生まれたもんだ。人として生きる最高の幸運を手にした。何の悔いもない。」と思えたら、いい人生を送った証かもしれません。


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