今月は、「木食行道上人」についてお話します。人は全て平等であるとする仏教の教えがあります。しかしながら、時にこの人同じ人間かと声を発したくなる、信じられないことを成し遂げる超人の存在を知ることがあります。
木食行道上人、木食さんと呼ばせていただきますが間違いなく超人のお一人です。木食さんは江戸時代後期の享保13年に、山梨の山深い寒村の農家の次男として生まれ、14歳の時江戸へ出ました。22歳の時真言宗の僧に出会って入門し仏道修行の道に入られ、修業を重ね45歳の時、茨城の観海上人から米・麦などの五穀や火を通したものを一切食べない木食戒を受けました。この木食修行を終え46歳の時念願であった日本全国を回る廻国修業に旅立ちます。
この日本廻国に、木食さんは巡った各地で千躰の仏像を彫るとの願をかけ、厳しい暮らしに苦しむ人々の信仰の支えとしたいとの強い決意がありました。木食さんは北海道から鹿児島まで83歳で亡くなる37年間に渡って日本各地を訪れ、千体を優に超える仏像を彫り上げ、ご自分の願を成し遂げたのです。木食さんの彫られた仏像は、ご自分のお姿を彫られた像を含め現在600数点発見されています。木食さんが各地に残されたのは仏像・神像だけではありません。約560首の和歌、南無阿弥陀仏他数多くの書や精巧な仏画も全国各地に残されています。それらは仏や神の世界が生き生きとまるで命を持つかの如く表現され、拝む者・見る者に熱い信仰の灯を灯し、大いなる救いとなったのです。
木食さんは佐渡や越後にも来られましたが、佐渡へ来られたのは比較的早く54歳の時越後の出雲崎から佐渡の小木に渡りました。佐渡に4年間に渡って滞在した木食さんは、島内各地に仏像約40体、書・画約110点を残され、最初の和歌集「集堂帳」を編みました。私も島内の寺院で5体の木食仏を拝見しましたが親しみやすい、心がほっこりする仏像の向こうに優しい木食さんのお顔が見えた気がしました。越後へは最も円熟期を迎えた75歳の時長岡へ入り、78歳まで越後各地を巡って210体以上の仏像を刻まれたのです。越後各地で木食さんの超人的な活動が今なお語り伝えられていますが、真冬でも着るものは1枚のみで、食べ物は持ち歩いているそば粉を水で練り塩を加えたものだけで、それ以外は一切口にしなかったそうです。仏像を彫るのは夜だけで、線香の明かりで一晩に4体の仏像を彫り上げたこともあったと記録されています。
昼は加持祈祷で苦しみ悩む者を救い、薬の作り方を指導され、いろり端で老人子供を含む家中の人にわかりやすく仏の道を説いたことが知られています。
木食さんの仏像の多くが微笑仏という笑顔のお顔をしているのが特徴です。廻国修業の初めは悲しい、厳しいお顔の仏像が多くみられましたが、佐渡へ渡られてから優しい笑顔の微笑仏に作風が変わってきました。ところが後年越後に来られた時はほとんどが大笑いの微笑仏を彫られました。この間の木食さんの心境の変化は推察の域を出ませんが、全国を回って各地で温かく迎えられ触れ合った人たちに仏の心を感じ取ったのではないか、自分はこのような仏の世界に生きていると実感した時、笑顔の木食仏が生まれたのではないか。木食さんの歌に「木喰を 尊い人と訪ねくる 訪ぬる人は なおも尊し」があります。