「もう一つの悟り」について(2020年12月テレフォン法話)

 今月は、「もう一つの悟り」について考えてみたいと思います。本年10月のテレホン法話で、30年ほど前佐渡にお葬式ができて、私が新潟の自宅で朝1番の船で出かける準備をしているとき、偶然付けたNHK教育テレビでインタビューを受けている禅宗の有名寺院の貫主さんが、悟りを開いた瞬間について説明されたことをお話しました。その内容は、40代前半の修業時代に浄土真宗の暁烏敏さんの講話を聴き、いつでも死ねるという心境になり一切の迷いがなくなって悟ることができたというものでした。
 実は、この話には続きがありました。その貫主さんは「その後も修行を続けていくうちもう一つの悟りを得ることができた」と話されたのです。私は貫主さんのもう一つの悟りを聴きたかったのですが、船に乗り遅れてはいけないとやむを得ず家を後にしました。その後も折に触れて、あのもう一つの悟りは何だったのかという思いが頭をよぎりました。
 話変わりますが、一年程前朝のニュース番組を見ていたとき「お寺の掲示板」を紹介していました。お寺の掲示板は、全国の各寺院で仏教の教えに関する言葉を山門等の掲示板に貼り出し、目に留めた方に読んでもらおうとするものです。私も25年程前、檀家の方が山門の前に掲示板を寄付してくださったことからお寺の掲示板をやっていますが、2ヶ月前に新しい掲示を張り出しました。天台宗を開いた伝教大師最澄の言葉で「慈悲とは慈しみと悲しみの心である。慈は人に楽を与え、悲は人の苦しみを抜くことである。仏道を求めんとする者は、この心を片時も忘れてはならない。」というものです。概要は仏教の教えである慈悲とは、あらゆる人を大切に思う心と苦しみ悲しむ人を救ってあげたいと思う心である。慈は人に喜びを与え、悲は人の苦しみを取り除いてあげることである。悟りを得たいとする者はこの慈悲の心を絶えず考えなければいけない。ということになります。
 掲示を張り終わって間違いがないか読み直していたとき、私の頭にもしかしてもう一つの悟りとはこれではないかとつぶやく声が響きました。仏教は悟りの宗教とも、智慧と慈悲の宗教ともいわれます。貫主さんが最初に悟られたのは釈迦の教え諸行無常であり、この世に命を得たものは必ずや死を迎え変化していく、これは宇宙の真理であり、春夏秋冬の四季の変化と何の違いもないことを悟って、自らに変化の時が訪れれば何も恐れずいつでも死ねるとの心境に至ったのです。このことは仏教の智慧を悟ったことに他なりません。
 一方、私が想像したもう一つの悟りは、貫主さんが全ての人に苦しみ悲しむ他人を思いやる慈悲の心があると確信したことではないかということです。もう一つの悟りが分かりかけた私の脳裏に、伝教大師最澄のもう一つの言葉「一隅を照らす者国宝なり」が浮かびました。この言葉の意味は、一隅は一つの隅っこですので何か一つ小さなことでいい、人の助けになることをしようとする者は国の宝なのだ。ということになります。仕事を通して社会に役立とうとする者、家族を護るため家事に励む者など全て国の宝なのです。人を助けたいという思いの人達がつくる社会が、極楽の世界なのではないでしょうか。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です