「悪口を言う」について (2024年9月テレフォン法話)

 今月は、「悪口を言う」について考えます。
 新潟日報に連載されているコラム「生きづらさを生きる」に「悪口にも効能」のタイトルが目に留まりました。内容は、筆者が悪口を言って生きてきた体験を話し、体が不自由な人を支援する人から、悪口が生きる原動力になりえるということを聞いて衝撃を受けたと語っています。その人が支援しているのはALSのような筋萎縮性の病気で、全身まひで人工呼吸器をつけている人たちです。話すことも書くこともできないため、文字盤を使って「あいうえお」などの文字をひとつずつ見つめて、介助者がそれを読み取り意思疎通をするそうです。話してくれた人が、「文字盤を使って誰かの悪口が言えるようになったらもう大丈夫だね。動けなくなる病気になると皆落ち込むけど、悪口を言えるようになれば死にたいくらいまでにはならないものよ」とご自分の体験を語ったと云います。
 筆者は、全くしゃべれなくなった人が、本来の自分を取り戻すのが悪口ではないか。それまで「ごめんなさい、ありがとう」だけしか言えなかった人が、悪口が言えて人間らしいコミュニケーションが取れたことに一息つけるのではないか。本当は悪口なんて言わないほうがいい、だけどこういう「効能」もあるのだと知って悪口や愚痴への見方が変わったのも事実と述べています。人は、悪口をいい自分に正直に生きることができて、気が楽になるということかと考えます。
 仏教の大切な教えに、十善戒があります。仏教の開祖釈迦は、この十の戒めを護れば人は仏になれると説きました。この十善戒の六番目に不悪口があります。不悪口は他人の悪口を言わないことを意味します。著名な宗教学者中村元博士は、釈迦が目指した仏に成るとは、最高の人格者になることを意味すると著書に書いておられます。
 この十善戒を全て護ることは私には不可能なことですので、仏にはなれそうもないと思っていましたが、この悪口にも効能のコラムを読んで悪口を言っても仏に近づけるかもと少しホッとしました。
 私事で恐縮ですが、今年2月に新潟で独り暮らしをしている姉にトラブルがありました。私がたまたま新潟に行った時、夜8時頃姉の家の隣の奥さんから電話があり「夕食のおかずをおすそ分けに姉の家に行ったところ、夜なのに電気がついていなくて真っ暗で呼び鈴を押しても出てこない。」と言われました。急いで姉の家に行ったところ、姉は寝ており意識はあるものの起き上がれません。救急車を呼び市内の病院へ搬送し、処置をしていただき入院させて帰宅しました。翌日、隣の奥さんのお宅に伺い「おかげで一命をとりとめました」とお礼を言いました。その際、奥さんから思いがけないお話がありました。「私はお姉さんが大好きなの、もう何十年のお付き合いで毎日のように会って話しているけど一度も他人の悪口を言うのを聞いたことがないの、いつも楽しくお話して明るい気持ちで帰れるわ、元気になって帰られたらまたお付き合いできるのが楽しみ。」
 奥さんから話を聞いている間、姉とは長い間兄弟をやっているのに姉の良いところに全く気付かず、見習おうともしなかったことに恥じ入りました。この一件があってから、できるだけ他人の悪口を言わないように心がけています。いつ誰に自分の人柄をみられているかも知れません。


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