今月は、「闘う人」について考えます。
私は、日曜の夜に放映される民放の「ポツンと一軒家」の番組が好きでよく見ます。好きな理由は、ポツンと一軒家に住む人は高齢の方が多いのですが、どなたも男性も女性も周りに家がない山の中の環境でたくましい生き方をされています。近くに店がなくても畑で野菜を栽培して調理し、水は山奥の湧き水を長い距離をパイプをつないで家に引き込み、建物が壊れたときは自分の手で修理しています。遠い昔、九州や近畿から船に乗り家族で佐渡に渡った先祖もポツンと一軒家の人たちのように、たくましく生きてきたと思うと深い尊敬の思いでテレビの画面を見ています。
今週もすごいポツンと一軒家の主がいました。テレビ局のスタッフが航空写真で見つけた岡山県の山奥にあるポツンと一軒家を探して、最寄りの集落で外で仕事をしている人を見つけ道を尋ねます。いつもそうなんですが、皆さん親切で大体は軽トラで一軒家まで案内してくれます。今回のポツンと一軒家は、有名な焼物備前焼の窯元の工房で、80歳の男性陶芸家が独りで作品を作り、建物から巨大な竜が山に登っていくような特大の登り窯で焼いている場所でした。
工房の棚には、花立や抹茶茶碗、大皿といった見事な備前焼の作品が並んでいます。ほぼ毎日、麓の自宅からこの工房に通い作品をつくっている男性は、今は売れないものを作っているんですよと笑いながら話していました。男性の前には、制作中の備前の土をこねた何やら怖い顔をした筋骨隆々、腕を振り上げ前に突き出した高さ80センチほどの製作途中の人物像の作品がありました。驚くことに、室内には台の上に30体以上の窯焼き前の様々な戦いのポーズをとった人物像がずらーと並んでいます。男性に尋ねると、今は全く売れない「闘う人」を作り続けていると話し、うちの登り窯が特別大きいため、窯一杯の作品ができるまで1~2年を要すると説明していました。
売れないのになぜ闘う人を作り続けるのか。もしかしたら男性は、人生とは死ぬまで闘い続けることだ、闘う人は美しい、納得できる闘う人ができるまで作り続けると決意しているように見えました。
男性の作品を見て、寺の本堂に安置されている不動明王の御姿が思い起こされました。不動明王は、口の両端に牙が出て恐ろしい怒った顔をし、右手に刀を持ち、左手に縄を握って背中に真っ赤に燃える炎の光背を付けています。子供が見たら怖くて泣きだしそうです。以前聴いたことがありますが、お不動さんはあんな怖い顔をしているけど本当は優しい仏で、間違った方に行こうとするものを刀で脅し縄を巻き付けて正しい方に引っ張って救っておられると教えられたことがあります。
不動明王は、別の敵とも闘っています。それは、自分の中にある煩悩です。煩悩とは、あれが欲しい、こうなりたい、楽をしたい、他人に良く思われたい、他人の悪口を言うなどの人間が絶えず持っている欲望を意味します。釈迦は、人の様々な苦しみはこの煩悩が捨てられないから生じると教えました。この教えから、自分の中にある煩悩を刀で断ち切り、余計な煩悩を縄で縛り上げて動けなくする姿の仏、不動明王が誕生したのです。自分を護ろうとする煩悩と闘い、苦しみ悩む人を護るため闘う人こそ、不動明王として今に生きている仏かと考えます。