「空の教え」について(2025年9月テレフォン法話)

 今月は、「空の教え」について考えます。
 先月後半に、長年正覚寺テレホン法話を聴いてくれている知り合いの女性Pさんからメールをいただきました。内容は、「残暑お見舞い申し上げます。私の方は、病院通いと仕事がうまくいかず心身とも弱り切っています。8月のテレホン法話で、忘れることの大切さ、精神を穏やかにするをお聴きし、心にグサッとくるものがありました。嫌なことは忘れて満杯の頭に空きスペースを作り、残された人生を楽しもうと思います。良きお知恵を有り難うございました。」と記されていました。
 私からは、「メールサンキュー。Pさんは正覚寺テレホン法話の優等生です。仏教の教え空とは夢の中という意味です。人の一生は全て夢の中です。夢の中なので必ず覚めます。それは死んだときです。人は必ず死にます。夢なので何事も苦にする必要はありません。考えないのが正解です。」と返信しました。
 Pさんには嫌な夢はすべて忘れてもらい、病院通いで病気を治していい夢を沢山見てもらいたいものです。しかし本当は、Pさんのように空を心底理解し嫌なことは忘れて人生前向きに生きることはとても難しいことです。
 私は先月、佐渡へ13年前に帰ってから最も信頼し困ったことがあれば何でも話して助け合ってきた3人の親友に、私の提案を否決され、顔をつぶされた、裏切られたと感じる出来事があり、眠れない日が数日続きました。そのとき絶えず空を頭に浮かべました。これは夢の中の出来事ではないか、忘れろ、考えるなと叫びましたが、しばらくたつと直ぐまた頭に浮かびます。なんでそんなことをしたら俺の面子が丸つぶれになりどんなに苦しむか彼らは考えようともしないのか。今まであれほど彼らのために時間を取り命をすり減らしてきたのに、楽しい思い出もいっぱいあるのに、単なる使い捨ての友人にすぎなかったのかなどと考えてしまい心が折れそうになりました。
 しばらくして、ふっと気が付きました。お前は苦しいと叫んでいるが、全てお前のために苦しんでいるではないか、自分などもともと無い、無い自分のために面子をつぶされたなどと苦しむのは間違っている、どうせ苦しむなら自分のためではなく苦しんでいる他人を助けるために苦しめというのが仏教の教えではないかと考えたら、気持ちが楽になりました。
 曹洞宗の宗祖道元禅師は、「自己を捨てるとは自己を忘れることなり」と弟子に説きました。悩み苦しむ自己を捨てるには、自分という存在を忘れること、つまりは何も考えないこと、ふっと浮かんできた誰かの苦しみを無くす助けになることを真剣に考えてみる、そんな生き方ができないか未熟な自分に問いかけました。
 今8月末ですが、連日テレビや新聞で長い夏休みが終わり、2学期が始まることに子供たちが不安になり、学校に行きたくない、また仲間外れにされるなどと悩んで、不登校になる子供が最も多いのは夏休み明けであることから、その対策が報じられていました。また、18歳以下の自殺は夏休み明けの「9月1日」が最多であるとも報じられました。
 悩める子供たちに云いたいのは「嫌なことは考えなくていいんだよ。勉強でも友達と話すんでもなんでも楽しい気持ちでやってみて。大切なことは、頑張っている友達でも家族でもいいねって思うこと。そして頑張る自分もいいねって思うことだよ」


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