今月は、「踏まれた草にも花が咲く」について考えます。
先月新潟日報に5回にわたり連載された「満州柏崎村の現実」を読んで、戦争により仲良く暮らしていた家族が恐ろしい悲惨な運命へと突き落とされる事実に、ウクライナの現状と重なり身も凍る思いでした。
第2次世界大戦前、日本が占領していた中国の旧満州に国策により日本各地から開拓移民団が送り込まれました。記事は、開戦翌年の昭和17年7月に満州柏崎村に入植するため両親、弟・妹の7人家族で、現新潟県柏崎市から満州へ渡った当時7歳の少年の壮絶な体験記でした。
入植当初は、同じ柏崎から来た200人ほどの人たちと一緒に原生林の開墾から始め、皆さん協力して作業に励んだそうです。ところが入植して3年ほどたった終戦直前の昭和20年8月上旬、少年の父親が兵隊に取られ以後消息不明となります。直後の8月9日旧ソ連軍が満州に侵攻しました。少年の家族はほかの開拓団の人たちと一緒に母親、幼い弟・妹と満州柏崎村を出て逃避行をはじめます。途中開拓村の学校に千人以上の女性と子供が避難し集団生活を始めますが、毎日馬に乗ったソ連兵が来て暴行を受け、食べ物もほとんどなく多くの人が亡くなり、少年も弟2人を亡くします。11歳の少年は死体の片付けもさせられたそうです。避難の中で親切な中国人の男性に出会い、男性の家がある村へ行きますが、母親はその男性と夫婦になり3人の子供を設けます。しかしその中国人の男性も貧しく、少年は家計を助けるため朝3時から働きづめの日々を送ります。
戦後7年中国に取り残された少年にも集団引き上げ事業で待ちわびた帰国の日が訪れます。父親がシベリア抑留から帰国し後妻をもらったことを知らされた母親は帰国に反対し、18歳になった少年はただ一人11年ぶりに日本の土を踏んだのです。柏崎に戻った少年は父の経営する店で働き、父亡き後家業を継承します。昭和46年中国に残った母も帰国を果たし柏崎で余生を送りました。少年は現在87歳で、満州で亡くなった人々を慰霊するため市内に「満州柏崎村の塔」を建立しました。
先日、宗教関係の冊子で「踏まれた草にも花が咲く」ということわざがあることを知りました。誰からも見向きもされず踏みつけにされるような逆境にあっても、それを忍耐をもって生き抜いていく努力を続ければ、必ず花を咲かせる時が来るというメッセージです。遠い中国の地で国から見放されながら、長い年月様々な困難に踏みつけにされるも生き抜いた少年は、念願の帰国を果たし87歳の今も充実した人生を送っておられます。少年はこのことわざを見事に実践したのです。
仏教に六波羅蜜の修行を積めば仏になることができるという教えがあります。その六つの修行の一つに忍辱があります。忍辱の忍は忍ぶ、辱は恥ずかしめの意で合わせて耐え忍ぶことを意味します。少年は、満州の地で幼くして11年にわたり忍辱の修行を積んできたのです。記事の中で少年は「来年88歳になろうとしています。過去あんなに難儀したのに、今日あることが不思議です。命の大切さ、ありがたさを絶対に忘れないようにしようと思っています」と語っています。この言葉から、少年は厳しい忍辱の修行により悟りを得て仏となったことがわかります。